The Montessori Method 〜日常生活の練習を通して見るモンテッソーリ教育〜
モンテッソーリ教育の3−6歳用プログラムの中には、日常生活の練習という分野があります。
ここでは子どもたちが家事の練習のような活動を通して、主に運動の洗練に焦点を当ててさまざまなことを学んでいきます。
こちらは、「手を洗う」という活動です。
単に手を洗うというだけではなく、
エプロンの着脱、適量の水をピッチャーに汲んでくること、運ぶこと、適量を洗面器に注ぐこと、洗面器の水をこぼさずにバケツに捨てることなど、
子ども一人で乗り越えなければならないことがたくさんあります。
この活動には工程が何段階もあります。
少しの間、大人の時間感覚を忘れて、
子どもが体験する時間の流れでこの体験を見てみましょう。
まず水で手を濡らします。
冬は温水を使用して、水の心地よさを体感します。
今度は洗いの段階です。
石鹸をつけます。
石鹸のなめらかな触感を感じながら、同時にいい香りも楽しみます。
泡の様子など、子どもにとっては興味点がたくさんあります。
ここから実際に洗っていきます。
まず手のひらと手の甲です。
次に指を1本ずつ、丁寧に時間をかけて全部で10本大切に洗っていきます。
今度は指と指の間。
時間を贅沢に使って自分の体をいたわるように洗っていきます。
次に手首です。
今度は、爪ブラシを水に浸し、爪先を片手ずつ集めて、ブラシで擦ります。
さて、ここまで来てようやく「洗い」が終了です。
マリア・モンテッソーリはイタリアの女性初の女子医大生となり、
そして後にイタリアの女性初の医師となりました。
そうした背景があり、この「手を洗う」では医療用の方法を古来より実践してきました。
今日は、コロナ禍であり、コロナ禍の只中に幼少期を過ごしている子どもたちにとっては、ごく当たり前のことのようですが、
少し前の時代にはびっくりするほど丁寧に手を洗う活動だという印象だったようです。
次に手を洗面器の水に浸します。
心地よい水温をまた感じながら、手についた石鹸を落とします。
ここでは石鹸が完全には切れません。
洗面器に溜まった水で流す時は、水道のようにはいきません。
まだぬるぬるしています。
石鹸水になった洗面器の中身を、台の下のバケツにあけうつします。
ヌルヌルしている手なので、洗面器ごと落として大洪水になるかもしれませんから、注意して体重移動しながら水を捨てます。
次にすすぎです。
あらかじめ半分残しておいた水をピッチャーから洗面器に入れます。
また心地よい水温を感じながら、手を水の中で動かして水流の感覚を楽しみながら、石鹸を綺麗に落とします。
終わったらまた台の下にあるバケツに水を移します。
今度は洗い上がった手を拭きます。
拭くときも、指の間も、指も一本ずつ丁寧に、自分の手を愛情込めて拭いていきます。
これで、手を洗い終え、片付けに入ります。
まず水の入ったバケツをこぼさないように水道に運んで流します。
次にまた戻ってきてタオルで洗面器、ピッチャーを拭いていきます。
台の上に飛び散った水滴は専用のスポンジで拭き取ります。
最後に次のお友達のために、乾いたタオルを手拭き用と道具用の2枚を持ってきてセットします。
これで全ての活動が終了です。
いかがでしたか?
「手を洗う」と言っても様々な工程があり、順序立てて、見通しが立てられないとできません。
そして水をこぼさないように扱うには、集中力や体の上手な動かし方が必要です。
それと同時に、これは一種のセラピーのようです。
ゆっくりと自分の体をいたわりながら、石鹸のいい香りや、暖かい水の水流を感じてリラックスすることもできます。
自分を大切にする心や自尊心を育てることにもつながります。
綺麗な手になると、心も整ったような感じもします。
ところがこんなにのんびりゆっくりと洗面台やシンクで手を洗っていると、
後ろの人に「どいて!」と言われてしまいますので、
モンテッソーリ環境では「手を洗う」の専用スペースが設けられているのです。
上記の流れは、何度もこれをやったことがあり、上達したお子様ならこのように気持ちよく体験できると思いますが、
はじめから上手くいくとは限りません。
思い切り床に水をこぼして水浸しになるかもしれませんし、そうじゃなくても水が跳ねて服や靴がびしょ濡れになるかもしれません。
失敗をするかもしれません。
モンテッソーリ教育ではこの失敗がとても大切なのです。
日常生活の練習の特徴の一つが、子どもが活動に関わる中で環境からのフィードバックがあることです。
手を綺麗に洗うと、手が綺麗になる。
床を掃くとゴミがなくなる。
反対に物をこぼしたら、濡れる。落としたら割れる。
家で水が床に何度もこぼれるようなことをされると困りものですね。
でも子どもの発達のためにこういうことを経験しても構わない場所が、モンテッソーリ環境です。
大人から怒られなくても、子どもは濡れてしまった机や床を見て、もう少し早めに水道を止めよう、もう少しゆっくり洗面器を動かそうと考えます。
この方が大人に指摘されるよりも、教え込まれるよりも効果的に上達することができるのです。
このようにモンテッソーリ活動に組み込まれている試行錯誤を促す要素を「誤りの訂正」と読んでいます。
日本人はよく「失敗を恐れる」と言われることがあると思います。
実際にそういう傾向にはあるのかもしれません。
でも日本にも昔から「失敗は成功のもと」というような言葉もあります。
“A person who never made a mistake never tried anything new.” (Albert Einstein)
ミスをしたことがない人というのは、すなわち新しいことに挑戦したことがない人だ。
アインシュタインの言葉です。
“To err is human to forgive, divine.” (Alexander Pope)
人は誰でも過ちを犯す。
そして人を許すという行為は神の領域のものだ。
このような格言は、著名なモンテッソーリ教育者がよく引用するものです。
人間は誰しも間違いやミスを犯してしまうのです。
モンテッソーリ教育では、
Being friendly to mistakes.
というフレーズが大切にされます。
ミスや間違いに友好的である、寛容であるということです。
間違えることや失敗することは嫌なものですが、人間は失敗を定期的に経験しなければ成長していかないのです。
必ず成長できるという信念を持っていれば、失敗をしても構わないのです。
むしろ失敗をしてもいいという安心感が大胆に挑戦していく精神を作ってくれて、結果的に成長のためのパワーを獲得できるのです。
反対に失敗を責める社会の気風は私たち大人も含めて人間を受け身にし、挑戦する心を弱くしてしまうのではないでしょうか。
Being friendly to mistakes. は、私たち大人にも必要な精神であり、子どもたちにとっても成長のために大切なのです。
この精神を手に入れるために必要なことは、子どもの中にある自らを成長させる力を信じることです。
晩年のマリア・モンテッソーリは子どもに対して、ある種の畏敬の念を持っていました。
それは科学者として世界中の子どもを研究し、子どもの中に人智を超えた力、
つまり自然の力または神の力を見出していたからです。
子どもは母親の胎内で、母親の細胞の延長のような存在でその生命をスタートします。
その時は「自分」「自我」「自分の魂」というコンセプトも意識もないと考えられています。
やがて生まれたばかりの子どもは、初めは体を思うように動かせず、どこからがお母さんで、どこからが自分かもよく分かりません。
そこからだんだんと自分という意識が芽生え、新しい「人間」となっていきます。
身の回りの人々から言語や習慣、独特の動作を吸収し、だんだんとその国のその文化の人間になっていきます。
もし仮にインド人の子どもが、イギリスに養子として引き取られた場合には、精神的または人格的にはイギリス人になります。
単に遺伝で決まっているわけではなく、その時その時間に確かに子どもの中で新しい人間ができていくのです。
本当にこのような知性はどこから来たのでしょう。
マリア・モンテッソーリはこの他にも多くの生命の神秘を子どもの中に見つけたのでした。
(詳しくはモンテッソーリの著書を参照してみてください)
そしてモンテッソーリは子どもの生命自身が自分を成長させる「内なる教師」を持っていることに気づきました。
適切な環境(子どもに関わる大人もその環境の大きな一部です)があれば、
その「内なる教師」が子ども自身の可能性を大きく開花させ、
私たち大人を超える存在(未来の平和な地球の担い手)にもなることができることを確信し、
このことに確固とした信念(信仰に近いもの)を持っていたのでした。
モンテッソーリ教育はこのような背景にあって子どもの中にある自らを成長させる力を信じ、
また子どもが自らの失敗から学び成長していくことを信じるのです。
今回は、日常生活の練習の「手を洗う」のお仕事から、
モンテッソーリ教育に用意された「誤りの訂正」という子どもを導く要素について、
そして、”間違えを恐れないで挑戦する精神とそれを信じて見守る精神のあり方”
についてご紹介させていただきました。